■中国での経験   2010年2月7日 会員 高木孝雄さん
 私は5年間、中国に住んでみて、改めて人間性・人情とはそんなに異なるものではないと感じた次第です。人間は住む場所の気候・環境により、人種、言語、文化、習慣、行動様式が異なります。ともすると、この異なる点を捻じ曲げ、悪意に取り上げ、それを煽り、敵愾心を煽り立てる事がよく見られます。交流を通じて、この異なる点について理解を深め、その結果を行動に移していけば、より平和で楽しい人間関係、国家関係を作り出せるものと考えます。我々の日中友好交流活動もその一つで、粘り強く継続して活動する必要があると思います。    
秦野日中の「新春の集い」の場を借りまして、少しでもこの理解に役立てばと思い私が身近に経験し感じました中国の様子をお話しいたします。皆様のご経験から既にご承知の事、私の浅学のため独断と偏見と思われる事があるかもしれませんが何卒ご容赦下さい。

・日本の2倍、3倍のスピード

  私は2008年12月に、5年間の中国(主に上海)勤務を終え帰国しました。
最初の訪中は、国交が回復した翌年、1973年(昭和48年)7月に日中友好技術説明団員としての上海出張でした。当時イギリスが統治していた香港で1泊して翌日、九龍鉄道で羅湖へ、ここで下車し若い紅衛兵の検閲を受け、歩いて国境の橋を渡り中国本土の深?に入国しました。深?で再び汽車に乗り広州へ、ここから空路で上海(虹橋)に着きました。今なら約3時間ですが、当時は羽田から約33時間の旅程でした。宿は当時の最大級のビルであった上海大厦(たーしゃ)でした。宿の窓から蒸し暑い夏風を受けて黄浦(ふぁんぷー)江(じゃん)(上海市の中心を流れている川で大きな鋼船が航行出来る)をゆったり滑る木造帆舟が見られました。37年経った今、このビルは超高層ビルに囲まれ骨董品となっています。
  1ヶ月程の滞在の間、白い半袖のシャツを着たお下げ髪の10〜20代の女子学生が通訳として我々を助けてくれました。「白い花が咲いていた・・・お下げ髪」を宿で団員仲間と歌った事や、訪中前に教えられた毛沢東を称える「東方(とんふぁん)紅(ほん)」を歌った事が思い出されます。
それ以降、私と中国との関わりは机上の技術交流から火力発電所の建設、火力発電機器の調達に移りました。この分野での発展も2倍、3倍のスピードで進んでいます。
短期間で全国的に整備された高速道路では所定の2倍ぐらい過積載したトラックが坂道を黒色混じりの排ガスを吹き吹き登っているのを出張中の車からよく見ました。今の中国を映しているようです。
日本では横浜駅の改造工事一つをとっても6年以上経った今も完成していません、中国ならこのくらいの工事は昼夜突貫工事をして一年で済ませるでしょう。万博を控えた上海の街は建物、道路、地下鉄工事、夜も昼も無く人も機械も働いています。休んでいる機械は一つもありません。これを見て東京オリンピックの頃を思い出します。
  帰国して間もない頃、横浜桜木町・みなとみらい地区に出てみましたが上海の黄浦江沿いの明るさ、ビルの大きさの残像がある私には、なんと田舎のように暗くて小さな町かと思えました。

・良い人も10倍、悪い人も10倍

日本の約10倍の人口、この倍率で良い人、悪い人がいるのが実感です。タクシーで遠回りされ倍以上の料金を払った、残額500元あった交通カード(TAX、バス、地下鉄共通のプリペイドカード)を0元のカードにすり変えられる等がある一方、道を間違え余分に走った分の料金を返す、忘れた手荷物を届けてくれた等と気持ちのよい事もあります。
バスや地下鉄で若者が私のような年寄りによく席を譲ってくれます、田舎では親切な人が多いのも日本と変りません。大声で喋るいかつい顔の女のバス車掌さんも「持ち物に注意しろ」と言い、スリに会わないよう安全な後ろの席を取ってくれます。
年金等の収入もない(官庁や国営の大企業等に務めた限られた人達以外ほとんどの人たちには年金はありません)田舎の両親に兄弟揃って送金しその生活を支えている社員も多く、「家族の絆の深さ、暖かさ」を社員の実家を訪問して肌で感じました。
嫌な例も多くあります、元の会社で未回収金の訴訟を起こしましたが、これを有利に運ぶために弁護士に支払う金は当然としても、裁判官までにも裏金が必要でした。消防検査で工場へ検査員が来て色々指摘しますが最後は少しお小遣いを渡しこれで終わりです。大きな会社相手の商売ではリベートは良くあることで担当社員の大切な副収入です。中小のオーナ会社は社長が決裁していますので「まけろ」とは言われますが、これはありません。

・世界で一番自由な国だ

最近、日本の会社に勤めている中国人が「中国が世界で一番自由な国だ、但し中国共産党支配に敵対しない限り」と言っていたと友人から聞き、なるほどと思うところがあります。長安に世界の人・物が流れ込み、流れ出た様相を今の上海は示しています。車を例にとって見ても良く分かります、上海では世界中の車が沢山走っていますが、日本ではこのような光景は見られません。
人間関係について日本人ほど上下左右、周囲について気にしないで自由に発言も行動もしています。自分に不利益な事があれば新入社員といえども堂々と先輩社員と大声で口論している風景をよく見ます。自分は自分で守っています。おとなしい人もいますが、これが又人前ですぐに泣き感情を現すのです。激しい生存競争の中では「恥らう」、「慎む」という行動は中国では少なさそうです。

・人圧が強い

少しの隙間があれば、車も人も突っ込んできますが突っ込まれた方は日本人ほどカリカリし爆破しません、してやられたなーと自分の力不足を認めているようです。会社の幹部が自分の部下を引き連れ、図面も持ち出し同じ製品を作り始めることは頻繁に起こります。チャンスを狙い一山当て自分も社長になり金持ちになろうと考える人も多いようです。しかし、そう簡単ではなく失敗する人が多いのが現実です。私の元の会社にも2人いましたが1人は失敗、1人は細々やっているようです。失敗すれば自分の力不足を認めているのでしょう、だから日本ほど格差についての不満が無いようです。儲けるやつは頭が良い、儲ける事が出来ないのは頭が悪いぐらいに思っています。金持ちを心から尊敬しているように見えます。
四川大震災の義援金集めで社長、資産家、有名人が得意満面に自分の寄付金額を記載した大きなボード持ちテレビのワイドショーの舞台に立っているのが印象的でした。寄付金が少なくて叩かれ後で増額していたアスリートもいました。慎み深い日本では本音はどうであれ、このような場面をテレビでは見られません。アメリカでも公の場で寄付小切手を得意げに見せているのをテレビで見ます、世界的に見ても日本が例外かもしれませんね。

・自分は自分で守る

お店のレジでこれ見よがしの偽札チェックに気分を悪くした人が多いでしょう、これも自分がババ(偽札)を掴まない為の自衛策です、私もこのババを掴まされましたが、知らないうちに財布から消えてしまいました、だれかがこのババを持っているのでしょう。
あるお寺に堂々とした金庫の上に穴を開け賽銭箱代わりとしているのがありました、日本でも賽銭箱の裏に廻れば南京錠が付いていますが。何処のお寺も苦労しているようですが「慎み深い日本」ではまず見られません。
鍵がやたらに多いのもその一つ2重3重に鍵をかけます。中国人の腰には鍵の束がジャラジャラ付いています。

・一歩外に出れば外国

大きな中国の中で夫々の省、都市、村は独立国の様相を呈しています。上海では外省人は外国人に近く、同胞と思われない扱いをうけています。彼らが上海戸籍を取るのはハードルが高く簡単にいきません。上海で犯罪を起こした場合、刑罰の判断では上海人には軽く外省人には重い傾向が有ります。日本でも一昔、朝鮮人、中国人に対しても同じよう事がありました。上海の街で自転車下車区域を自転車で走り、よく警察に捕まっているのは出稼ぎ労働者です。このような規則は田舎にはありませんので、知らないのは当たり前です。でも罰金を取られています。100元(1,400円)程の罰金そりゃいたいです、日当以上ですもの。
社会保障等色々な規則はその地域の歴史的経緯や実状を汲んだもので国家によって統一されていないものが多く、統一されたものがあっても守られていないようです。ですから上海で駄目なものでも深?では許可される事例があります。

・底が深く、巾が広い

歴史の深さ、広さは周知の通りです。近代的な北京や上海から車で3時間も離れると別世界に入り、5〜60年まえの昔懐かしい風景に出会います。新車の走る北京、上海、その少し郊外に行くとドアのキチント閉まらない車が沢山走っています。
貧富の格差が大きいといわれますが。2009年の平均年所得については都会で1.7万元、農村で0.5万と3倍以上の差がありますが物価はそれなりに低く抑えられておりそれなりの生活は出来るようになっています。この所得額は官報の数字ですから実際にはもっと差があるようです。
身近な散髪代については5元(約70円)〜200元(約2700円)の巾があります。貸家も上海で300〜3万元/月以上と100倍以上の巾が有ります。
地方に行くと高速道路を歩く人、逆走する車が見られ、都会での信号無視、車道を歩く人は出稼ぎにきた規則を知らない人達です。
東北地方の牡丹江の丘、果てし無く広がる、トウモロコシ・豆・紅花畑で働く農民の家族,殆ど人力での農作業、沈む夕日に照り輝く明るくつややかな顔をした農民の親子の姿に奥の深さ、巾の広さを感じました。
(牡丹江のトウモロコシ畑を行く農民親子、近くでロバが草を食んでいました)

・辞めるのは簡単、辞めさせるのは大変、採用は簡単

日本語を教え、日本に研修に行かせて、帰国後、さあー頑張ってもらおうと思っている間も無く、賃金のよいところが見つかれば義理も人情もなく簡単に辞めます。雇用情勢が厳しくなり40歳ぐらいになると簡単には辞めません、辞めてもらうのには一悶着があるのは日本と同じです。今まで人懐こく接していた従業員が自身に不利となった途端、経営者としてではなく日本人として対峙し牙を剥きます。
人事・労務関係は真剣勝負、日々緊張の連続です。
辞めた後の人員補充は実に簡単、事前に人材市場開設会社に2~3万円払い、その会社が開設する(しょっちゅうやっている)人材市場会場に行き採用条件を書いた看板を揚げて求職者を待てば良い。面接してよさそうな人物がいれば会社に呼び再度詳細面接と必要なら試験をやり最終決定をする。日本で新卒者対象に1回/年にやっている合同就職説明会場みたいなものを年から年じゅうやっているみたいなものです。世界的にも日本と韓国だけが1回/年と言われています。

・怒る人は少ない

地下鉄のラッシュ、降りるより先に人がなだれ込んできます。ターミナル駅である程度、席が確保出来ることが分かっていてもこの様です。しかし怒る人は見かけません。私だけが「先下後上」と叫び、押し返しカッカしていますが・・。私と女子社員と一緒に帰ると、折り返しの地下鉄駅で電車が来ると、彼女は素早く整列なんかそっちのけ、扉が開くと席をめがけて突進、高木先生「ここここ」と席を確保してくくれます、頼もしき限りです。

・細かい事は気にしない

日本の耕作中の田や畑には目立った雑草が生えていませんが中国では雑草がよく見られます。整髪されたような日本の茶畑はなく、ごく自然のままの姿の茶畑が山の斜面に広がっていますが、結構やすくて美味しいお茶があります。(日本的管理をすればもっと良いお米、果物、お茶が採れるかもしれません。最近、日本式を取り入れ始めている所もあるようです。)
日本のように箒を立ててほじくり出すような掃除は見かけません、これが大陸風なのか箒を横にして大胆にザーザー掃いていきます、これで結構綺麗に仕上がります。
立派で壮大な建物であっても内装細部については、仕上げ一つにしても気に掛かるが多くあります。また細部の機器のトラブルが多く、まだまだ日本の方が優っています。中国の次のステップで、この辺(品質)に日本の活動の余地が一杯ありそうです。

・商売の原点

匂いに集まる蝿の如く、人の集まるところにはすぐ市が立つ、商売の原点をよく目にします。人通りの多い横断歩道の中央分離帯で通行妨害になろうがなるまいが堂々とCDや花を売っています。勿論ちょっとした広場・歩道の上で店開き、蝿たたきが舞えば蝿が霧散するがごとく、不法商いの取り締まり巡回検視さんが来たら瞬く間に一時避難です。
建設現場の前には早朝から屋台が並び白い湯気や、香ばしい油の焼ける匂いがします。
天秤に果物を担いでの商い、6月の季節になると山桃、さくらんぼが売られています。風呂敷の上には野菜、アクセサリィー、雑貨・衣類、盗品らしい骨董の磁器4~5個を並べた日焼けした人達、きっと田舎では稼ぎを待っている人がいるのでしょう。

・証明書がお好き

高級感を与える為よく果物の表面に産地証明シールが張ってあります。これで少しでも高く売る事を考えているのでしょう。上海の果物屋のおじさんが客の前で堂々とこのシールを貼っていました。誰が何時、何処で張ろうが、権威つける事と目立つ事が大切、このためか合格書をやたらに製品についています。タオルなど買うと体を拭くのに邪魔なほどの大きな合格書が付いていました。
公司(会社)の玄関には処狭しとばかりに赤色と金色の合格書、証明書や時には政府高官と幹部が並んだ写真(これも合格書の1つ)が一緒に掛けてあります。

・接待

仕事関係で食事の接待を良く受けますが、往々にして他の客と一緒の場合が多いのです。初めはチョット異様に感じましたが回数が増えてくると、なるほどと思うようになります。別々にやるより経費は安く上がるし接待者側の出席者は一回で済み、接待を受ける者同士も知人を増やす事が出来ます。日本では、このような接待はまずありませんね。

・勝負事がお好き

夕刻の慌しい食料品市場の肉屋さん、生肉の隣の板の上に座り商売そっちのけで将棋、トランプをやっていました。路上でもトランプ、マージャンをやっているのを良く見かけます。成都では昼日中から木陰(竹)の下で茶を飲みながらマージャンをやっている人達をよく見かけますが、特に高齢の人達がのんびり過している様子には風情が有ります。日本でも健康マージャンが普及し始めたようですが屋外でやればなお良いのではと思います。

・庶民の屋外交流

少しの広場があれば朝にはおじさん、おばさんが太極拳、剣舞、体操、ダンス等を、午後にはおしゃべり、将棋、トランプ、マージャン、楽器の演奏、路上のお習字等をやっています。夜には、大きな扇子等の小道具を持っての踊る仕事を終えた中年おばさんや球技を楽しむ若者が主役です。晴れた休日の公園はこれらを楽しむ人達で一杯です。日本に比べ楽しみの種類が多く、陽気で生き生きとしています。実に健康的です。大きな音楽でご近所は毎日やかましいかもしれませんが。ここにも「恥らう」、「控えめ」、「みっともない」という言葉はありません。日本では1回/年に盆踊りがあります、これを毎日やっているようなものです。
・懐かしい社員旅行
日本で3〜40年前に盛んだった社員慰安旅行が喜ばれます。私の元の会社は年に1回、近郊へ1泊2日のバス旅行(儲かっている会社は飛行機で東南アジアに連れて行く事もあるようです)をします。バスガイドのおしゃべり、食べたり、歌ったり昔懐かしいバス旅行、皆で大いに楽しんでいます。途中でみやげ物屋を回る等も同じ。昼2食、夜、朝各々1食がついて費用は300元〜400元(4500円〜6000円)程度でこれを会社が負担します。家族を連れてくる人もいます。白酒を飲みすぎ心臓停止した若者、皆で介抱して事なきを得た事が懐かしく感じられます。

・幼稚園のお遊戯

中秋節のフェティバルに幼稚園児がお遊戯をやっていました。孫の様子を思い浮かべ眺めていました。日本と変わらない出し物の他に、おや!と見ました、男の子はおもちゃの銃を持った兵隊さんと女の子は水兵さんの姿、音楽にあわせ真面目に5星旗を振り、敬礼をする可愛い仕草、実に楽しそうに踊っていました。その内容はよく分かりませんが、表面的に見ると、これが日本の幼稚園で行われていたら、如何なものなのでしょうか。
それ!日本は軍国主義が芽生えた、幼児から軍国教育などとは!何を考えているのか等々と。国内だけでなく、中国、韓国まで大騒ぎするのではないかと思います。
・花火と爆竹
特定の行事に関わらず毎日のように上海では花火をボンボン打ち上げています。
春節に近づくと彼方此方でバンバンバチバチパンパンです。好きなのですね春節休み明け会社の前で爆竹を鳴らしました。店を開業する時は魔よけですか爆竹をバチバチやります、この頃許可を得ないと罰金を取られるといっていましたが、真面目に許可を取っているようには思えません。大連などに行くとこれがすごい量でバチバチやり爆発音に近い音を出します。爆竹の燃えカスは路上に散らばったまま、掃除のおばさんが掃除するまでの我慢です。

・ドラえもん

成都に実家がある社員の家を訪ねたときに小学3年生の子供さんが持っている漫画が「ドラえもん」でした。最近、アニメから日本や日本語に興味を持ち始めた20歳以下の中国人が増えているようです。元の会社の通訳も同じ事を言っていました。経済交流が拡大する中で相変わらず嫌日、嫌中が多い中、このような新しい動きも出ています。若い女性ファッションを通しての日中交流も新しい動きです。
・郊外バス
全国的にバス網が張り巡らされています、鉄道に比べ早く着き、切符も簡単に買えます。
長距離指定席バスや夜行寝台バスが多くありますが、2~3時間程度の距離では指定席バスもなく、乗せるだけ乗せ、ギュウギュウ詰めの中、我慢しなければならないことがあります。
これにも理由があり、客が少ないと運転手の実入りが少なくなるようです。
国営の非効率は数々あります、特に鉄道の切符は事前に入手しないと当日では時間が掛かり時には買えないこともあります。

あとがき

2010年2月7日の「秦野日中の新年の集い」において懇談形式で以上の話をしました。
この中で秦野市会議員のA先生が最近、小中学生のアンケートを取ったら「子ども達は欧米人には一目置いて、中国人、朝鮮人を下に見る」との結果が出たと言っておられた。これを聞き、正直、私の小中学生の頃と全く変っていないのではないかと思いました。私の小さい頃は太平洋戦争前の教育がそのまま残っていた所もありますが、これだけ経済交流が多くなり人の往来も激増した今でも以前と変らないことに驚きました。この原因は単に国(政治体制)が異なり、経済格差があるからだと言って単純に割り切れるものでもありません。精神面での理解を深める努力が国家レベルでやられてこなかったことに起因しているのではないかと思います。少なくとも明治以前では国学があったとしても中国、朝鮮は学問的には同等以上のレベルにあると教養ある日本人の多数は考えていたと思います。明治以降、近代化が遅れた中国、朝鮮に対し国家レベルで見下す考えが醸成され民衆に広まったように思われます。徳川幕府を倒す大義名分が「尊王攘夷」であったように太平洋戦争も「尊皇攘夷」で、その果てには黄色人種では日本人が最上位にあると錯覚を起こさしめる考えが今に残っているものと思います。
最近始まった国家レベルでの「日中歴史共同研究」が粘り強く進められ、又民間レベルでの交流活動をさらに活性化してこの問題に取り組み真の交流が行われる事を期待したい。道のりは長いと思われますがこれを解決しない限り、きっても切れない隣国との平和な関係を築く事は出来ないと思った次第です。私も微力ながらこのお手伝いをしていきたいと思っています。